昭和43年5月4日 朝の御理解      (末永信太郎)    №43-062




 昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思うとき、鏡をたて悪い顔を人に見せぬようにして家をおさめよということであるとあります、第88節。これは、嫁入りをする娘さんか何かに下さった御理解じゃないかと、こう思うですね。
 この教えにというか、この御理解の言葉に現れております、まひとつ、その裏というものを頂いて見ると、大変有り難いみ教えだと、こう思うのです。この家をおさめるという、家をおさめよと、こう言うておられる、その家をおさめるということが、いかに自分の心をまず治めなければならないかということを教えておられるように思いますですね。
 例えば、辛い、苦しい、まあ、悲しいことがあっても、ね、鏡を立てて、自分の顔を眺めて、ね、こういう顔を人に見られちゃならんと言うて、んなら、ただ表面だけ綺麗にするのではなくてと、こう先に仰っておられるように。ね。ここんところをを、いわば、御教えを頂かせてもろうて、その難儀、悲しいということの内容を分からせて頂くところから、ね、自分の心が治められる。
 ですから、自分の心一つを治めきらずに家が治められるはずはないということが分かります。ましてや、国をおさめるとか、ね、申しますが、大変なことだと、こう思いますですね。自分の心一つ治めきらない政治家が、千、百あったところで大したことはないです、という風に思いますですね。
 例えば、それをもっと小さく、お店ならお店をおさめるということにしても、そうです。ね。沢山の例えば従業員なら従業員を、なら、中心になるその主人がです、自分の心一つ治めきらずして、やはり、店全体の治めが出来るはずがない。ね。だから場合には、まあ、大きな心とか豊かな心、太っ腹でなからなきゃならんといったようなことを申しますけれども。
 ここは信心でですね、頂きますと、自分の心がいつもこの、どのような場合でも和賀心と申しますかねえ、和らぎ賀ぶ心というものが育てられて行きよらなければ出来ないことを思います。まず、家を治めると言うても、ね、自分の心一つが治められずして家をおさめられるということはない。これは、決して嫁だけのことじゃない、女だけのことじゃない。皆がそういうことが言えると思うんですよね。
 昨日、大阪に行っておりますが、井上(かずこ)さん。現在、森(かずこ)さんて、あちらに嫁に付いて行っとります。現在は玉水教会におかげを頂いておる。25日があちらの新築落成式が行われております。見事ですねえ、こういう、こういう見事なのが出けてる。この中にあちらの先生がご挨拶をしておられる中にですね、(みやけとしお)という先生ですね。
 いわゆる、もう、四十年からの、四十一年間、開教四十一年間になられたそうですが。厳しい、例えば難儀、と。まあ、全部、私の厳しい師匠であったと言うておられますですね。それを、ここではどういう風に申しておりますですかね。そのことによって育てられたと、こういうことです。そのことによって、いよいよ、まあ、豊かにも大きゅうにもなられたからこそ、これだけのことが、(総額?)三億七千万かかってるんですね。ほれは、もう大変な、もう、それこそ名実共に日本一の教会でございましょうね。
 それが、んなら、その四十年間の間に、ね、このような大みかげを頂かれたというのは、ね、その、難儀そのものをです、自分の師匠として頂かれたということ。こういう頂き方をすりゃあ、いつも自分の心が治まりますよね。皆がその難儀から、逃れよう、逃れようとしてる。ね。これでは、育ちもしなければ、いわゆる、自分の心を治めることも出来ません。ね。
 そこんところをここでは、私は一切神愛、最近の言葉で言うと、そう私は申しておりますですね。一切が神愛なのだ。ね。信心のある者とない者は、親のあることないことほど違うと仰せられる。本当に信心をさせて頂いておれば、まあ、何というその、有り難いことであろうか、と。神様の懐の中で、もう、何の不安も心配もない。ね。母親の懐でお乳を頂いておるように、心安らかなおかげを頂いておるという。
 本当に有り難いなあ、とこう思う。かと思うと、今度は、もう、父親の厳しさとでも申しましょうかね。母親の懐ではない、いわゆる、父親の厳しさに触れる時にです、ね、本当に厳しいまでに切諌を受けるようなお叱りを受けることもある。けれども、それは親なればこそなんです。ね。
 私はあの、その(みやけ先生)はそこんところをですね、厳しい師匠に付いておったという風に頂いておられるわけですね。それを一つも難儀と見てござらん。ね。そういう頂き方の中にです、私は難儀が難儀ではなくて、ね、一切神愛ということが言えれる。同時に、合楽の場合には、この、厳しいだけではなくても、本当にこう、親からなでさすりされておるのじゃなかろうかと思うような一面を非常に強く頂いております。それは、私どもが育ってませんから、私どもが言うなら幼稚ですから、ね、怒るばっかり怒っても、まあ、出来んから神様が言うなら甘やかせて下さっておるという感じが致します。ね。
 けれどもです、まあ、私ども凡夫の場合はです、そういう一面もなからなければ、とても、私はやって来れなかったです。どういう修行の最中にありましてもです、ね、一方には叩かれておるような感じですけれども、一方にはです、それは師匠とは思いきらなかった、神愛とは思いきらなかった。けれども、その、もうすぐ側にはです、もう、神様がこのような情感、このような情愛を、愛情を持ってです、もう本当になでたり、さすったりして下さっておるようなものを、私はいつも感じてきた。
 私の上に働きなさった神様は、そういう神様だった。だから、私は辛抱が出けた。ただ叩かれよるばっかりであったら、私は良うとこの神様には付いて行っきらなかった。ね、それを、私は良い師匠としては受けきらなかっただろう。ひょっとしたら、信心やめとったかも知れん。けれども、その反面には、ね、もう、叩かれて、叩かれてヘトヘト、足も上がらんようになっておるような時でも、どこからか神様が、ね、それを慰めて下さるように、労わって下さるように言うて下さり、なさって下さった。
 だから、痛い、苦しいけれども、やはり有り難いというものがいつも伴うておった。私の場合は、そういう二つの神様の愛情で育てられて来た。いや、合楽に御神縁を頂いてる全ての人が、そこを通っておると私は思うんです。ね。そこにです、私は今日の御理解を頂きますと、いわゆる心を治めることが出けたんだとこう思います、どのような中にありましても。ね。
 いわゆる、われ神と共にありでございます。いつも、われ神と共にある。しかもその、神様のご正体というのは、陰陽を一つにしたような、言うなら父であり母であり、その健全な両親が揃うと、揃うた子供のように、慈しみ育てられて来たということ。それを、私は実感させて頂いて、今日ここまでお育てを頂いた。
 そこんところを、ちょっとこう、(みやけ先生)の頂いておられた神様とちいっと違うように感じます。それは、私の信心が幼稚だからかも知れません。だから、ね、場合には甘やかせてござる時もありゃあ、場合には厳しゅう育てなさった、と。ですから、私の場合、いわゆる、一切神愛ということになったわけなんです。ね。叩かれることも、なでさすりされることも神愛だ、と。ね。
 その一切神愛であると分からせて頂く時にです、私の心はいつも治まる。まあ、いつもと言うか、おかしいですね。どのように乱れに乱れるような時であってもです、それを思うと治まるのであります。ね。やっぱし、これだけのことを段々おかげ頂いて行く上には、んなら、お広前内におきましても、家庭内におきましても、やはり、おさまりがつかないような問題もいくらもございました。
 けれどもです、そういう場合に私の心が治まってさえおれば、それが有り難い、円満に治まって参りました。ね、そこんところを、私は例えば、ね、漬物が臭くなった。ね。重しの軽いことを知らなきゃいけません。親の言うことを聞かん、親が重しが軽かけんでたい、と言うて私は言うて来ました。ね。その、けっきょく、重しがきつうかかってさえおりゃ、臭くなるはずはないです漬物は。ね。
 ということは、自分自身を知れということ。自分自身の軽いことを分かれて。自分自身のいたらないことを分かれ。ね。子供が言うことを聞きません、信者が言うことを一つも聞きません。ね。聞くばっかりの信者、話すばっかりの先生。いわゆる、言うばっかりの先生、聞くばっかりの信者。もう、大変お話、話を聞いて助かる道と仰るから、ね、話が上手でさえありゃ人が助かるごと思うてござる人達も、先生方の中にはたくさんあるんですよ。だから、まるきり、落語家のごたる、話のけいこばっかりせん。
 そりゃ、もう、泣かせたり笑わせたりして、まあ、一時間でも二時間でも飽かずに聞かせなさる先生があるから、そこんところの信者はずいぶん助かってるかと思うと、助かるという信者もいない。なぜかと、言うばっかりの先生、いわゆる、口ばっかりの先生。だから、信者も聞くばっかりになってしもうておる。ね。ですから、例えば、んなら、家庭にそれを持って行ってもいいのです。
 それは、お母さんが(言わしておる?)ことは、立派なもっともな事ばってん、子供は一つも言うことを聞かん。よくあの、教育家の家庭にそれが多いですね。ええ。主人も学校の先生、奥さんも学校の先生。そりゃあ、もう、ぴしゃりしたことを教えてござる。けれども、子供が言うことを聞かん。なぜ、口ばっかりだからですよ。ね。教育家のうちじゃから立派な子供が育たんならんかと思うと、かえって、そうではない事実が世間には沢山あるでしょうが。いわゆる、形だけではいけないということが分かります。ね。
 先生の、んなら、教会の先生でもそうです。私どものように、なら、無学で何も分からない者であってもです、ね、一切神愛とさせてもらい、親のある証拠。お叱りを受ける時でも、親があるからこそ叱ってくれるんだ。ね。(浮浪児?)なんかは誰も怒る手がない、親がないから。だから、汚れとろうが、破れた着物を着とろうが、また、お金が入りゃあ、(かいご?)をしようが、誰も注意をしてくれる者すらがおらん。ね。信心のない人達が、気まま、わがままの生活をしておるのを見て、ね、ああいう生活が出けたら良かろうなんて思うのは、(浮浪じ)を見て、(浮浪児)がわがままな生活をしておるのを羨ましがっとるとと同じです。ね。親があるからこそ、ね、叱りもすりゃ、ね、怒りもする。
 だから、また、なでさすりするように、目の中に入れても痛くないというような可愛がりをする時もある。ね。漬物は臭くなるのは、重しの軽い証拠と、例えば分からせて頂くところにです、これは、子供が言うことを聞かんのじゃない、私が軽いからだということになる。信者が言うことを聞かん、これしこ、よか話ばして聞かせよるとに、いっちょん家の信者は行き届かん、分からんと言うておる先生がもしあるとすんならです、それは、アンタが言うばっかりの人じゃからですよ、と。
 あなたが口で言うだけのことが、実際に行いが出けるようになってご覧なさい。信者がちゃんと言うことば聞く、行き届いた信者が出けるようになりますよ、ということになるのじゃないでしょうかね。これは、家庭に持って行っても同じことなんです。ね。そのようにして、私は、家は治めて行かなければならない、お店を治めて行かなければならない。ね。
 それには、先ず、自分自身の心そのものが治まらずして、治まるはずがない。ね。そこで、その心を治めるというのは、治めよう、治めようと言うただけでは、辛抱せにゃ、辛抱せにゃと、堪えとかにゃ、堪えとかにゃ、と。言うことを聞かんとばってん、親が堪えとるより他にはなか、親が馬鹿になっとるより他はなかというような事だけじゃいかんということです。ね。
 親自体が軽い証拠。ね。親自体が言うばっかりの親。ね。私は本当に思うです、ね、家を治めるということは、ね、自分の心一つを治めきらずして、家がおさまるはずはないて。ね。ですから、その心を治めさせて頂く意味合いにおいてです、(みやけ)先生のように、ね、どんなに厳しい、例えば難儀な問題であっても、それを師匠として頂かれる生き方。
 そこに、おかげの受けられる、いわゆる、私の言う一切神愛という頂き方。ね。そこから、まあ、具体的に申しますと、色々ありますよね。昨日、熊谷さんのところでの謝恩祭にみんなおかげを頂きました。あちらで頂きます御理解が、神われと共にあり、ということでした。ね。
 もう、これはいつも、これは今日、お道の信心をする人ならば、もう皆、言うならば使う言葉です。ね。神われと共にあり。その気持ちで、いつも生活させて板だけと、こう言うのである。そして、それを観念的に説いておられる。なるほど、神様はわれと共にあるなあ、と。
 ところが、これではね、一つもおかげに繋がらないのです。観念的な神様、ね、教えられた、そういう意味合いで教えられた神様はです、言うなら役に立たんのです。ね。理論の上に立った神様であったり、観念の上に立った神様であったんでは、ね。ですから、なるほど神様はわれと共にあって働いておって下さるんだなあ、という実感をです、ね、それは、厳しいことにつけ、優しいことにつけ、それを実感させて頂いてこそ初めて、神われと共にありということになって来るのです。
 だからこそ、一切神愛と悟らせてもらえることが出け、一切われの師匠であるとして、そのことを頂いて行けれるんです。ね。7時からのお祭りが、8時ちょっと過ぎました。私は、これはもう、どこへ参りましてからでもそうですけれども。ね。私の御祈念中、私が玉串を例えば奉っておる時、ね、例えば時計がジーンと言うて鳴ってもね、私はもう自分にご無礼が出けたと思うですね。
 なぜって、神様がそういう大変な大事な時にです、私と神様がお話し合いをしておる時にです、そういう邪魔が入ってはならないと、私は思うからです。そういうはずはないて。ね。んなら、例えば、あの、あちらの時にはですね、ちょうどあの、三十分おきに、その、鳴るんですよ。んなら、お祭りはやっぱり小一時間かかるから、どこでか、しゃっちその、まあ、やっぱりその、音がするわけなんですけれど。
 これは、どこの場合ででも同じこと。ね。ですから、ちょうど私が、ね、御祈念を終わると、拍手を打つと同時に、それに、ジンジンとこう、時計が鳴る。玉串をあげ終わって、拍手打って下がらせて頂くと、ジーンとなる。その合間、合間にですね、縫うようにして邪魔にならんように神様が、そういう働きを下さる神様だと、私は信じておるです。また、私は神様からそのくらいに認められとると自分で思うておるです。 私のすることに、神様は邪魔しなさるはずはないと思うておるです。ね。これはだから、あの、皆さんがあちらこちらの宅祭りにお出でられてから、これは実感されることだと、こう思うんですけれども。それほどに間違いのない神様なんです。ところがです、昨日は私の、いわゆる御祈念のちょうど真中にです、8時半ですかね、8時半のそのジーンが鳴った。
 さあ、私はもう血の気の引くような、御祈念をしながら思いました。もう、それで、もう心はシューンとなってしまってですね、もうそれこそ、神様から見捨てられたごたる、その(  )。けれども、いくら見捨てられたところで、この神様のおかげを頂かなければ、すがらなければ立ち行かん自分であることを知っとるから、ね、そこんところを詫びにも詫び、願うにも願わせて頂いてから、御祈念を終わったんです。
 それから、お祭りも済んで、今度は霊神様へのご挨拶をさせて頂いた。霊神様でも、もう、熊谷さんところの霊神様だけじゃなくて、いつもはそうではありませんけれども、あちらの御霊屋を通して、ね、私の尊敬する先生方の御霊様辺りも、今日はこげなご無礼が出けました。熊谷(さだよ)という氏子が一年に一遍のお礼のお祭りをさせて頂いておるのに、私信心の不行き届きのために、こういう不浄が入りました、こういう邪魔が入りました。熊谷一家に対しても相済まんこと。
 どうぞ、神様お詫びをして下され、お詫び、ね、お詫びをして下されという願いを、もうもう、長々とお詫びさせて頂いた。お詫びをさせて頂いて、拍手して、玉串を奉って、もとの座に着かせて頂いた時に、9時の時報がジンジンジンジン。はあ、これで許されたという実感がね。
 どうでしょう、私が長々としておる時に9時がもし打ったなら、私は昨日は、言うなら切腹もんというくらいに、私は感じております、神様を。ね、ですから、なでさすりされる時にもそれを実感させて頂くが、ね、お気付けを頂くでもです、私がいつも申しますように、例えば、(鴨居?)で頭を打っても、ああいたー
言うとるだけじゃつまらんて。はっ、神様が、それこそ、何かお気付けを下さりよるという、神の声としてそれを頂かせてもろうてこそです、間違いのないおかげが頂かれるだけではなくてです、ね、私は神われと共にありということはです、そういうことじゃなかろうかと、こう思うです。ね。
 どげんお気付けを頂きよろうが、どげんおかげを頂きよろうが、それを神の働きとも実感出けずしてです、真に有り難い心も生まれない、真に相済まんという心も生まれないでです、われ神と共にあるということが観念的に言うておったりしておった、あの、いわば信心で何の役に立ちましょうか。ね。
 いわゆる、観念の上に立った宗教に出してしまってはならん、金光様の御信者という風に、私は感じます。ね。神様われと共にあって、しかも、それは、ね、有り難い、いわば優しくまた厳しく、そういう働きを下さる神様のご守護をいつも受けておる私なのだ。ね。そう分かって来て、初めて私はですね、どのような場合であっても、それを、ね、厳しい師匠と頂き、または優しゅう教えて下さる、また、師匠とも頂けるわけなんです言うなら、ね、私の生き方で行けば。ね。
 だから、私は今日まで辛抱が出けて来た。そういう神様に、私どもは日々、御取次の働きの中から、そういう神様の働きを受けておる私であるからですね、どのような場合であっても、その教えという鏡を前に立てさせて頂いたら、ね、自分の心の見苦しさがその教えの鏡に映るなら、これを改めさせて頂いてこそ、初めて態度にも顔にも、いつも、言うならばにこやかな、または有り難い、私は雰囲気というものが出ける。いわゆる、心を治めることが出ける。だからこそ、家が円く治まるのである。
 でなかならば、教育者とか、ね、宗教家のうちだったら、家の中が円満に行かなきゃならないはずですけれども、それはもう不思議に、教育家や宗教家の家庭においてですよ、ね、それが出けてないところが多いんですよ。あれだけ立派な先生のところに、子供さん方がどうして付いて行きなさらんじゃろうかという宗教家が多いんですよ。それは、けっきょk形ばかり。言うばっかりの先生だからこそ、子供が言うことを聞かんのです、聞くばっかりの子供になって来るのです。ね。聞くばっかりの信者になって来るのです。
 ね、これは教会だけのことじゃありません、銘々の家庭においても然り。ね。ですから、これは、嫁入りでもされる娘さんに下さった御教えでしょうけれども、この御神意、これを深く頂いたら、私は今日申しましたようなことになる。だから、心が治められる。自分の心一つ治められずして、国を治めるなんておこがましい。そういう政治家に本当を言うたらです、言うなら任せちゃおられんという気が致します。ね。
 私ども一人一人がです、ね、村の円満を願うならば、先ず、私の一家が円満なおかげを頂かずして、村の円満ばっかり言うたって、村の円満が出けるはずがない。私の、私を見て下さい、私の家庭を見て下さい。ね、それが、村いっぱいに広がり、町いっぱいに広がって行ってこそ、私は、ね、円満な町づくりが出け、お国づくりが出けるんだ、という風に感じるですね。
 この御理解から、こういうように頂けれるのですよね、今申しましたように。御理解88節。昔から親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心に辛い悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして、家をおさめよということである、と。ね。これを一般的に頂きますと、もうこれだけなのですけれども。それを、なら、御理解として頂きますと、只今申しましたようなことになって来るのじゃないでしょうかね。どうぞ。